『星をみるひと』理不尽な闇を歩き、星を見つけるまで

タイトル 星をみるひと
発売日 1987年10月27日
発売元 ホット・ビィ
当時の定価 5,500円
ジャンル RPG

そういえば、あのゲーム、最初の町がどこにあるのかさっぱりわからなかったよな。主人公のミナミを操作して、何の説明もなく放り出された廃墟のようなフィールドを、ただただ歩き回ったあの感覚を。方向音痴の友達が「もう、どこ行けばいいのよ!」とコントローラーを握りしめながらぼやいていたっけ。『星をみるひと』は、いきなりプレイヤーを孤独な闇の中に突き落とすゲームだった。

ホット・ビィがファミコンに仕掛けた「パソコンゲームの挑戦」

そう、あの理不尽さだ。『星をみるひと』を遊んだ者なら、最初の町が見つからずにフィールドを彷徨い、何の前触れもなく突然死を迎えた記憶があるだろう。この、当時のファミコンRPGの常識をことごとく裏切るゲームデザインは、実は明確な意図のもとに生み出されたものだった。開発元のホット・ビィは、元々パソコンゲームを手がけるメーカーであり、『星をみるひと』はそのPC-8801用ソフト『サイキックシティ』の続編的プロジェクトとして始動した。つまり、ファミコンという家庭用ゲーム機に、パソコンゲームの持つ「難解さ」や「プレイヤーへの挑戦」をそのまま持ち込もうとしたのだ。当時のファミコン市場は、『ドラゴンクエスト』の大ヒットにより、より広い層に向けたわかりやすいRPGが主流になりつつあった。そんな中で、ヒントも少なく、プレイヤーの選択と探索を徹底的に重視するこの作品は、一種のアンチテーゼとして生まれた異色作だった。開発チームは、パソコンゲームの熱心なユーザーが求める「解くことそのものに価値がある謎」と、ファミコンの制約の間で苦闘した。結果として生まれたのは、極端に遅い移動速度や、パスワードによるセーブデータの劣化など、ハードの限界に起因する不親切さと、意図的な難解さが入り混じった、他に類を見ない体験だった。この挑戦が商業的に成功したとは言い難いが、後の「クソゲー」というカテゴリを超えた、一種のカルト的傑作としての地位を確立する所以となったのである。

最初の町が見えない、これがサイキックシティの掟だ

そうそう、あの理不尽さがたまらないゲームがあった。コントローラーを握りしめ、何の指示もなく灰色の荒野に放り出されたときの、あの途方に暮れる感覚を覚えているだろうか。『星をみるひと』の面白さは、まさにこの「制約」そのものが生み出す創造性にある。プレイヤーは、見えない町を探し、意味のわからないダメージを受け、気まぐれなパスワードに翻弄される。これらはすべてバグや手抜きではなく、意図された「世界の理不尽さ」を体感させるための装置だったのだ。

最初の町が超能力で隠されているという設定は、単なる隠し要素ではない。プレイヤーに「この世界は説明してくれない」という根本ルールを叩き込むための、強烈な導入である。当時の我々は、地図もヒントもなく、ただフィールドを歩き回り、偶然に救いの村を見つけた時のあの高揚感を忘れられない。移動速度の遅ささえも、サイバーパンク的な退廃世界の「重苦しさ」を演出するための仕掛けだった。確かにイライラはしたが、その世界観への没入感は、スムーズな移動では決して得られないものだった。

高価で使い捨ての「IDかーど」や、見えないアイテムの取得といったシステムは、現代のゲームならば「ユーザビリティの欠陥」で片付けられてしまう。しかし、このゲームにおいては、それが世界の「危険で不条理なルール」そのものなのだ。プレイヤーは与えられた不合理なルールの中で、どうにか生き延び、謎を解く方法を自ら編み出さなければならない。攻略本がなければ「歩く」か「死ぬ」かしかない、と言われたのも頷ける。その絶望的な状況下で、仲間を見つけ、わずかな手がかりを繋ぎ、世界の秘密に迫っていくプロセスこそが、このゲームの核心的な楽しみだった。

256単位でしか記憶されない所持金のシステムに象徴されるように、このゲームはプレイヤーに「完全な状態」を保存させてくれない。常に何かを失い、不完全な状態で先に進むことを強いる。それは不便極まりないが、同時に、この歪んだ未来世界で超能力者として生きる「不完全さ」や「危うさ」を、システムレベルで体感させる驚くべきデザインなのである。面白さと理不尽さが表裏一体となった、他に類を見ない体験を提供するゲームだった。

『La-Mulana』や『Undertale』に流れる「理不尽」のDNA

そう、あの理不尽さがたまらない。『星をみるひと』の、まるでプレイヤーを試しているかのようなシステムは、確かに当時の子供たちを泣かせた。しかし、このゲームがなければ、後のゲーム史は確実に違うものになっていただろう。その影響は、特に「インディーゲーム」というジャンルの隆盛に顕著に見て取れる。このゲームの、ヒントがほとんどなく、プレイヤーの探索と試行錯誤に全てを委ねるデザイン哲学は、現代の「メトロイドヴァニア」や、謎解きに重きを置いたRPGの原型と言える。具体的には、『La-Mulana』や『Undertale』といった、プレイヤーの選択と発見を核とする作品の系譜に、そのDNAは確実に流れ込んでいる。『星をみるひと』が提示した「プレイヤーを信頼し、時に見捨てる」という過激なスタンスは、商業主義から距離を置いたゲームデザインの一つの源泉となったのだ。現代では、その意図的な不親切さや、単純な勧善懲悪を超えた物語は、クソゲーというレッテルを超え、一種のカルト的傑作として再評価されている。あの理不尽なIDカードや、見えないイベントの存在は、今や「挑戦的デザイン」として語られるのである。

GAMEXスコア

キャラクタ 音楽 操作性 ハマり度 オリジナル度 総合
84/100 92/100 78/100 86/100 92/100 86/100

あの星空を仰ぐ時間は、確かに特別だった。キャラクター84点、操作性78点という数字は、動きの鈍さや操作感の癖を率直に映している。だが、音楽92点、オリジナル度92点が物語るのは、静謐なBGMと独自の世界観が、その欠点を遥かに凌駕する魅力だったということだ。プレイヤーは操作するキャラクターではなく、星を見上げる「ひと」そのものになる。ハマり度86点は、その没入感の証だろう。

あの夜、小さな画面に浮かぶ星々は、単なるグラフィックの集合ではなかった。星を集めるという行為そのものが、ゲームの本質であることを『星をみるひと』は静かに教えてくれた。現代のオープンワールドに散らばる無数の収集要素の源流には、あの無心で夜空を見上げた体験が、確かに流れているのだ。