『アサシンクリード』と歴史表現 未発表企画の噂から開発方針を決めつけないために

『アサシンクリード』をめぐっては、過去の出来事をどこまでゲームとして描けるのかが、繰り返し議論になる。歴史に題材を求めれば、信仰、政治、身分、差別、暴力に触れずに済ませることは難しい。一方、歴史上の出来事を扱うゲームは、史実そのものではなく、創作として遊びを組み立てた作品でもある。

以前の本稿は、アメリカ再建期を舞台にした未発表企画が撤回されたという報道を起点に、Ubisoftの判断理由を断定していた。しかし、企画の詳細や中止の経緯、社内判断の根拠を公式発表として確認できない。『シャドウズ』への批判が次の企画を止めた、と因果関係を確定させることもできない。

作品への批評と、社内事情の推測は別

公開された作品の描写を批評することはできる。どの人物の視点を選び、何を省略し、どこを創作したのか。プレイヤーが実際に触れられる部分については、具体的な場面を挙げて論じられる。

ところが、発表されていない企画の中止理由を論じる場合、作品そのものを確かめることはできない。制作費や社内の議論を外から補えば、仮説の上に別の仮説を重ねることになる。もっともらしい説明であっても、それだけでは事実にならない。

歴史上の社会を遊びに変える難しさ

『アサシンクリード シャドウズ』は、奈緒江と弥助という異なる立場の人物を通じて戦国時代を描く。人物の立場が違えば、同じ場所の見え方も違う。歴史ゲームの面白さは、年表を順番にたどることだけでなく、その世界のなかで何を見て、どう動くかにある。

ただ、遊びのための省略が、歴史に対する誤解を生むこともある。移動や戦闘を快適にするための表現と、実際の社会の仕組みを同一視しないことが必要だ。作品を楽しむことと、そこで知った事柄を資料で確かめることは両立する。

題材の重さだけで評価を決めない

難しい歴史を取り上げたから優れているとも、娯楽へと整理したから価値がないとも限らない。どの視点を選び、その選択によって何が見え、何が見えなくなったのか。批評の対象は、そうした具体的な表現であるはずだ。

企業が論争を恐れて表現を狭める可能性は、一般論として考えられる。しかし、特定の企画がまさにその理由で消えたと主張するなら、その企画に関する裏付けが必要になる。確認できない社内事情を作品の評価と混ぜないことは、メーカーを擁護するためではなく、批評を成立させるための条件だ。

歴史を扱うゲームには、遊び終えた後に別の資料へ手を伸ばしたくなる面白さがある。公開された作品の何がそう思わせたのかを論じるほうが、存在や経緯を確認できない企画を根拠に、企業全体の表現方針を決めつけるよりも実りが多い。

2026年9月5日訂正:未発表企画の中止を公式確定事項として扱った見出し・因果関係・匿名発言の再現を撤回した。

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Ubisoft