Ubisoftがなぜ南北戦争後を語れなかったのか
2025年10月、Game Fileが伝えたスクープが一部の業界人に衝撃を与えた。Ubisoftは、2024年時点で「アメリカ再建期(Reconstruction)」を舞台とする新しいアサシンクリード作品の企画を進めていたが、最終的に中止したという。主人公はかつて奴隷とされた黒人男性で、アサシン教団に加わり、南部へ戻ってKKK(クー・クラックス・クラン)と対峙する構想だったとのこと。だが社内では“政治的すぎる”という判断が下され、企画は葬られたという。
この報道がなぜわれわれにとって重要なのか。それは、ただ一作品のキャンセルにとどまらず、現代の大手ゲーム企業が「語るべき歴史」と「語れない歴史」の境界線を自ら引く時代に差し掛かっていることを示すからだ。本稿では、報道内容を補填しつつ、Ubisoftの判断の裏に潜む不安構造と、それがゲーム表現に及ぼす波を掘り下げていきたい。
報道から読み取れること
まず、報道内容を整理しよう。Game Fileの取材に応じた関係者は匿名のままだが、複数の証言には整合性があり、以下のようなポイントが指摘されている:
- 企画は構想・初期段階にあり、まだ実制作には至っていなかった。
- 主人公は南部出身の元奴隷で、西部へ移動後、アサシン教団に入る。そして南部で差別と暴力に抗うという流れが想定されていた。
- 構想の中には、クー・クラックス・クラン(KKK)といった白人至上主義組織が抗争要素として登場する予定だった。
- なぜ中止になったかというと、主にふたつの理由だ:一つは『Assassin’s Creed Shadows』でYasuke(黒人のサムライ)を主人公に据えた際、オンラインでの反発があったこと。もう一つは、アメリカ国内での政治的緊張が高まっていたこと。これらを鑑みて本社が“政治テーマは時期尚早”と判断したという証言がある。
- ある関係者の言葉に、「Too political in a country too unstable(あまりに不安定な国で、政治的すぎる)」というものがある。
この企画中止は、「ゲームを途中で止めた」事例としては珍しくない。しかし今回の中止理由に聞こえる「政治的懸念」は、従来のプロジェクト停止とは性質が異なる。言い換えれば、販売見込みや技術的制約ではなく、“語ることで起こる波”の予測が判断軸になった可能性が高い。
なお、Ubisoftはこの件に対する明確なコメントを出していない。関係者の証言と論点整理をもとに、以降の分析を進める。
なぜこの企画は“危険”とされたか
なぜ、歴史の深層に踏み込もうとする企画が、未だ“危険視”されるのか。その背景には次の三つの構造が存在する。
1. “反発の先取り”志向
これまで、企業は炎上後の対処を中心に備えてきた。ところが、今回のようなケースでは「批判が起こる前に自粛する」という先制的姿勢が働いたように見える。企画段階で議論を浴びそうな要素をすべて洗い出し、見込みリスクとして排除する動きだ。
この先取り型リスク管理は、創作上の自由を削ぐ方向へ働く。何度も議論した上で実行する構図ではなく、批判想定段階で封鎖する構図になる。
2. アメリカ市場の重みと世界への波及
Ubisoft はフランス企業ではあるが、北米市場は同社にとって極めて大きな収益圏だ。アサシンクリードの売れ行きも北米市場への受け入れを強く意識せざるを得ない。
したがって、アメリカ国内の政治事情や世論動向は、表現の自由よりも先に商業判断に影響を及ぼし得る。特に現在のように文化戦争的な論争が激しい時期では、「白人至上主義」など敏感な語彙を扱うこと自体が“勝負のテーマ”になり得る。
3. 炎上コストを先読みする経営感覚
高予算プロジェクトにおいて、炎上がもたらす損失は単なるPR対応では済まない。ブランド信頼毀損、販売減退、余波としての訴訟リスクなどが企業を襲う可能性があり、これを先読みするコスト意識が強まっている。
今回のケースでは、企画段階で視聴者・世論の“反応”がどのように燃え上がるかを重視し、その想定コストが“実行継続”に見合うか否かで判断が下された可能性がある。
歴史とゲームを結ぶ難しさ
ただし、歴史を描くことが不可能というわけではない。むしろ、歴史を扱えるかどうかが表現力の試金石となる。だが、そこには避けられない難点がある。
再建期アメリカのテーマ性
再建期とは、南北戦争後、奴隷解放と国家再建とが錯綜した時代である。黒人の公民権獲得、白人抵抗、州の法制度再構築、差別法制度の重層化――これらは歴史の闇の中にあるテーマだ。
この時代を舞台にすると、単なる過去話では済まされない。現在の人種問題、制度的不平等、コミュニティの分断感と強く重なる。その重なりが作品の強度となるが、同時に“現代への読み替え”可能性も孕む。
フィクションと史実の折り合い
成功する歴史ゲームは、史実へのリスペクトと創作の自由を両立させる。史実をそのまま再現すると物語が硬直化するし、架空要素が過剰だと歴史無視と見なされる。特に差別・暴力・抑圧を扱うテーマでは、解釈のズレが炎上の種になりやすい。
だからこそ、企画初期段階から歴史研究者や文化コンシェルジュ、批評者との協業態勢を整えるべきなのだが、企業の意思決定層はその準備を“コスト”と見なすことがある。
この中止が意味する“傾向”
今回の中止は、ひとつの例外ではなく、産業全体に拡がる傾向の端緒かもしれない。以下のような兆候が、現場に既に見えている。
- 企画段階で炎上可能性ばかり議論され、本質が後回しになる構図
- 物語のテーマ選定で「無難な題材」が安全選択肢となる風土
- 開発者自身が最初からセンシティブ表現を避け、提案の幅が狭くなる
- プレイヤー側も、挑戦色より“安心して遊べる作品”を求める傾向強化
これらが強まると、たとえ優れた構想があっても企画段階で弾かれることが標準となり、表現の屋台骨が徐々に削られていく。
打開の可能性を描く
ただ批判するだけでは無力だ。現状を突破するために、以下の方針を提案したい。
企業理念の再編と判断優先軸の転換
企業は、批判リスクよりも表現挑戦を評価する風土を育てる必要がある。失敗を許容する構造、コメント削除ではなく対話を重ねる姿勢、批判を学びに変える文化。こうした転換がなければ、“語るべき歴史”は企業の判断領域で消される。
企画段階から対話と透明性を組み込む
歴史・文化テーマを扱うなら、関係者(研究者、住民、文化団体など)を早期から巻き込むべきだ。透明な企画説明、議論のログ公開、意見反映メカニズムを持つことで、“閉じた企画”から“対話的企画”へと進化できる可能性がある。
プレイヤー・批評家の後押し
企画を支持し、話題に引き上げるプレイヤーと批評こそが力を持つ。リスクを避ける空気を変えるのは、受け手の態度だ。「挑戦的な物語を歓迎する」という意思表示は、制作側への後押しになる。
小規模プロジェクトの試験運用を重ねる
大規模タイトルで挑む前に、小規模な作品で社会テーマを試すモデルもある。リスクも制御でき、表現実験の場として作用しうる。成功例を積み重ねることで、次第に大作への道を切り拓ける。
おわりに
Ubisoft が語るべき再建期アサシンクリードを葬った決断は、一見 “安全策” のようでありながら、実は企業が自己抑制する姿勢の象徴だ。その判断は、語られ得た物語を歴史の闇に沈めてしまった。
だが、その沈黙こそが、時代の空気を映し出す鏡である。語られなかった物語が示すものは、すでにゲーム産業の枠組みが「許容線」の内側に収まり始めているという危機感だ。
挑戦すべきかどうかを語る前に、まず忘れてはならないことがある。表現とは、常に可能性と責任を伴う行為であり、語られない歴史が最も強い沈黙を物語る。そして、それを打破できるかどうかが、これからの時代の分岐点になる。
