『アサシン クリード シャドウズ』(以下、ACシャドウズ)が発表・発売期を迎えた2024〜2025年、作品そのものの出来栄え以上に、登場人物の設定や歴史表現をめぐる議論が世界的に拡散した。織田信長に仕えたとされる黒人の武士・弥助とくノ一・奈緒江という二人の主人公、神社・寺院での表現、パッチ対応の是非など、争点は多岐にわたる。だが本質的には、ゲーム産業がここ数年進めてきたDEI(Diversity, Equity & Inclusion:多様性・公正性・包摂)の進路が、作品という“現場”で初めて大規模に試された出来事だった――そう捉えるべきだろう。
何が起きたのか
発端は、弥助という実在人物を主人公に据えた決断に対し、「歴史考証に合致するのか」「DEIありきではないか」という批判が欧米のSNS上で急拡大したことだ。加えて、日本の宗教施設に関わる描写の一部が“破壊可能オブジェクト”として扱われているとの指摘が国内でも大きな反響を呼び、発売前後のデイワン・パッチで表現を見直す対応が取られるに至った。さらに、開発に関与した学識者へ向けた個人攻撃も発生し、“ゲーム外”の倫理と対話のあり方までが問われる局面になった。
炎上はどこまで影響したか
ACシャドウズはシリーズの柱ゆえ、投資家の注目は常に高い。2024年以降の遅延や通期のブッキング減少は、株価の不安定化を招いた。もちろん業績は単一要因で決まらないが、ブランドの看板作を取り巻く否定的言説や“バッシング”の連鎖は、評判リスクとして無視できなくなっている。作品の評価と市場の期待が乖離したとき、株式市場の揺れは制作現場に直接の圧を生みやすい。炎上は作品内問題にとどまらず、企業価値のファクターとして可視化されたのだ。
DEIとは何か
DEIは「見た目の多様化」では終わらない。制作陣のバックグラウンド、企画段階の意思決定、リサーチの範囲、宣伝文脈、UIや難易度の配慮、ローカライズの姿勢――これら全体を通じて“誰が置き去りにされていないか”を点検するフレームである。表現の自由と対立する概念ではなく、むしろ創作を拡張する設計思想だ。主人公が複数であること、歴史上の余白にフィクションを差し込むこと、文化資源を扱う際のガイドラインを整えること。これらは“政治的配慮”ではなく、現代的な大作制作の実務でもある。
専門家とファンの摩擦
本件では、歴史・文学・文化の専門家が開発に助言したこと自体が攻撃の標的になった。学術は単一の“正解”を保証しないうえ、ゲームは創作的再解釈を要する。そこで起きる齟齬(そご)をどう橋渡しするか。批判者と丁寧に対話を重ねたコンサルタントの事例は、対立を“勝ち負け”にしない姿勢がコミュニティの温度を下げ得ることを示した。炎上の度に専門家が沈黙や離脱を選べば、作品の質と多様性は貧しくなる。対話の設計まで含めて“開発の仕事”だと捉えるべきではないだろうか。
スピードと説得力
宗教施設に関する破壊表現の一部を非破壊化し、流血表現の扱いを調整する――発売直前のパッチでなされた変更は、技術的には小さく見えて、象徴的には大きい。表現の自由と文化的配慮のバランス取りを、運用の中で更新できることを示したからだ。他方で、修正の線引きが作品世界の“生々しさ”をそいでしまう懸念もある。短期的には炎上を和らげても、長期的に創作の幅を狭める副作用はないのか。パッチでの微調整は“万能薬”ではなく、継続的な対話の入口にすぎない。
コンサルタントが見るDEIの効用と副作用
外部のDEI/カルチャー・コンサルは、採用・定着(リテンション)、国際市場への到達、リスクマネジメントの三点で明確な合理性を示す。一方、成果指標が“キャラクター構成の記号化”に偏ると、物語の説得力が落ちる危険もある。重要なのは“誰を足すか”ではなく、“世界に根を張った人物として描けているか”。たとえば弥助なら、同時代の日本社会における他者性、権力と暴力、言語や宗教の摩擦、そうした緊張の上に立つ物語の必然が問われる。DEIは設定ではなく、ドラマの芯に通っていなければならない。
世界のコンテンツ産業で何が起きているか
2024〜2025年は、米国を中心に“DEI疲れ”や制度の縮小を報じる記事が増えた。ゲームでも、一部のスタジオが専任ポジションを再編し、現場主導の「作品単位での合理性」を重視する流れが強まっている。予算が引き締まる局面では、ともすると“まず売れる絵柄へ”と回帰し、マイノリティの物語は後回しになりがちだ。だが、過去10年で拡張されたプレイヤー層とプラットフォームのグローバル化を考えれば、包摂を手放すのは中長期で自傷行為に近い。見直すべきは“スローガンとしてのDEI”であり、“物語設計としてのDEI”はむしろ深化させる局面にある。
大作はローンチ初動が命、という命題は正しい。だからこそ、対立を避ける“安全運転”に傾く圧が強い。しかし、ブランドは“言葉と行いの一貫性”で育つ。多様な身体・出自・価値観を物語に参画させると決めたなら、批判や誤解の一部は想定内と割り切り、時間をかけて対話し、作品で応える覚悟がいる。市場は短期の荒れに敏感だが、良い作品と誠実な運営は、数年スパンで評価を反転させる力を持つ。DEIはコストであると同時に、将来の需要を先取りする投資でもある。
それでもDEIが必要な理由
ゲームは“遊べる物語”だ。誰もが主人公になれるはずの媒体が、特定の身体や背景を前提にしか共感を設計できないとしたら、メディアとしての可能性を自ら縮めることになる。DEIは、道徳の話というより“創作自由の最大化”の技術論だ。多様な視点が脚本室にあるほど、紋切り型の再生産から離れ、ジャンルの地平は広がる。ACシャドウズをめぐる賛否は、そのプロセスの難しさを可視化したが、同時に“対話と修正”を通じて合意可能なラインを探る手つきも示した。
炎上を越えて、成熟へ
今回の騒動は、作品・企業・コミュニティの三層で学びを残した。作品は「歴史の余白にフィクションを差し込む」作法を、より緻密に磨く必要がある。企業は“初動の説明責任”と“批判との距離の取り方”を、経営リスクとレピュテーションの観点から再設計しなければならない。コミュニティは、異論や違和感を“人格攻撃”に転化させないための規範を更新し続けるべきだ。炎上は通過点であって終着点ではない。DEIの看板を掲げるのであれば、看板倒れにしない運用と、語りの厚みで応える時期に来ている。
(文責 ティム・マクアードル)